第17章 暴力とアイデンティティ
もしも敵がいなければ、人々はなんとかして新しい敵を見つけよう──あるいはでっち上げようとするだろう。
敵がいたほうが主張したいことを推し進めやすいと思っている人たちがいて、そういうことなのか、という気持ち。
平和とか協力のような曖昧なものよりも敵のような具体的なもののほうがイメージしやすいからだと思っている
私たちは、よそ者が自分たちの社会に加えた危害のほうを、度合いとしては同じくらいの良い行ないよりもおぼえている傾向がある
こういう偏って認識してしまうことを予め知っておかないと、悪い方にしか捉えられなくなってしまいそうで怖い。
ファクトフルネスの話(環境破壊・テロなどの問題を過剰に評価して恐れすぎてしまう)を思い出した
浴槽のような動きのない脅威
「浴槽のような動きのない」という表現がわからない。後にも出てきている。
こちらを傷つけようとする明確な意図をもって行なわれることを察知するように人間の心がおそらく進化してきたということを思い出せば納得がいく
とあるので、「こちらを傷つけようとする明確な意図」がないような脅威のことを言っているのかなと思いました
実際には何の根拠もない否定的なステレオタイプにしがみつく傾向が人間にはある
はてぶのコメントかなw
ほんそれ
浴槽に対しては平気なのにテロに対してはパニックになる理由は、テロリストたちが私達一人ひとりを脅かす可能性があるからではなく、彼らが、私達の社会にとってシンボルとして大切なものを傷つけることがありうるからだということがわかる
具体的な脅威ではなくイメージとしての脅威が膨らんでいる感じかな
これは戦争や攻撃だけじゃなくて、コロナやコロナワクチンみたいな陰謀論にもあるかも
章全体を通して、過剰品質が発生するメカニズムの一つが少し分かった気がした。あと、バグが過去に出た経験を過剰に恐れすぎていないか?というのは自分自身で改めてふりかえりたくなった。
これは少し違うイメージ。品質、機能を選択する時には最上のものを選ぶものかなと